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歩き方が違う!

 それはまだ私がいたいけな(笑)幼児だった頃。覚えている映像の目線が父上の膝の高さである。そのくらい小さい頃。

 ヨチヨチと歩き出した私は、その日、父上の後ろについて家から一番近い畑へ向かっていた。

 そして気づいてしまったのだ。

 私と父上では歩き方が全然違うということに!
 私はそれまで、素直に足を前へ出して歩いていたのだが、父上はと見ると、大分外向きに足を出している!
「なんてこった!私は今まで間違った歩き方をしていたのだ!」
と思った私は一生懸命、父上の難しい歩き方の真似をした。

 そして立派なガニ股歩きを会得したのであった。

 今では家族の誰が聞いても、父上と私の足音の区別はつかない。あっぱれなコピー技術(涙)。

'01/09/28 UP


自転車免許

 私の行っていた小学校には「自転車免許」制度があった。

 それは金・銀・銅とあって自転車の後ろに貼るステッカーとして支給される。


金の自転車免許。中に小学校名と「自転車免許」って字が印刷されていたような気もするが、レイアウト他よく覚えていないので省略。形はこんな形。校章と同じ形だった。ちなみに日本刀が4本組み合わさった形の枠の校章であったのだ。銀・銅の免許は同じ形で色違い。

 「金」は町内全域で自転車に乗ってよい許可。「銀」は学区内、「銅」は小字(こあざ)内なら乗ってよいのである。

 ちなみに今「小字」なんて表現はほとんど使わなくなっているので説明すると、住所を表す数字の直前部分が小字であると思えば大体よい。例えば「六本木上3−5−4−8」とかいう住所なら「六本木」が大字で「上」が小字にあたる。

 話を戻す。では免許を持っていないとどうなるか?乗っていいのは自分の家の庭と学校の校庭のみである。田舎のことゆえ、これはキツイ。

 友達の家に行くのに徒歩片道1時間とか、最寄の駅まで徒歩30分以上の世界である。もちろん町内を便利に走るバス路線なんて存在するわけもない。あっても小学生は金がないから乗れんしな。

 なにゆえ、自転車免許なる制度が出来たかというと、学区内に、それなりに交通量の増えてきた県道があったりしたので、下手に乗ってて交通事故にあっちゃいかん、という理由だったらしい。

 同じ字内の友達ならともかく隣の字の友達の家へ遊びに行くのに片道1時間も2時間もかかっていては遊ぶ時間もほとんどとれない。しかも夏しか遊びに行けない(笑・夏は日が長いから)。

 よって自転車免許「金」をとるのは憧れだった。

 小学校高学年になると免許試験を受ける資格が出来る。毎月第○土曜日だったかが試験日だ。

 試験は筆記試験と実技試験がある。
 筆記試験の内容は自転車に関連した交通規則と交通標識の知識を問うもの。交通規則の部分に関しては自動車免許の筆記試験と似たような感じの出題方式だったと思う。
 標識のテストは、漢字の読み仮名テストにさも似たり。標識の絵がズラ〜〜ッとあって、その下のかっこに標識名を記入していくのだ。

 自転車に関する交通規則はさほど多くないので簡単であった。交差点の横断の仕方や手信号を覚えていればいいのだ。
 交通標識は、あらかじめ勉強用に一覧を印刷したプリントを貰えるのでそれを覚えればよい。もともと物心つく前から車によく乗っていた私は自然に覚えている標識も多かったので、50あろうが、100あろうが大した苦労もなく覚えられた。おかげさまで自動車免許をとるとき、標識は全然勉強しなくてよかったです。うふ。

 というわけで筆記試験はすぐ「金」レベルまでクリアした。楽勝じゃ。

 問題は実技試験。

 何しろ私は「どんくさい」が服着て歩いていると言われる程の運痴。しかし小3の頃だったかに姉上(小)に特訓されて乗れるようにはなっていた。乗れないやつはもちろん実技試験など受けられるはずもなし。乗れたからといって即受かるものでもないのだが。

 まず学校の自転車倉庫から試験用に自分にあった自転車を借りて校庭へ集合。しかし、すでに「自分にあった」自転車はない。サドルにまたがって両足の裏がほぼペッタリ地面に着くのが「あった」自転車なのだが、そういう自転車は他の子が先に取っている。競争がキビシイのだ。大抵私はつま先がかろうじて着くサイズの自転車しか借りられないのである。借りに行く時のスタートが人より遅いからなんだがな。

 さて、実技試験には3種類のコースがある。

 「金」は擬似交差点。「金」を受けるときには物置からリトル信号機が出されて校庭に即席交差点が設置され、そこで交通規則にのっとった信号交差点の横断が出来ればよいのだ。

 私は不満だったぞ。何故なら、このコースが一番簡単だからだ!こんなん、規則を覚えてて、そのとおりの手順を踏めばいいだけじゃん!「金」の実技試験が一番簡単なんてサギだ。

 しかし、銅・銀をクリアしなきゃこのテストは受けられないのだ。ちゃんとスイッチで赤や青のつくリトル信号機を自分のために設置する日が来るのが私の夢だった・・・。

 それはさておき、銀と銅の実技試験はどういうものだったか?

 銀は30センチ幅の8の字コース。銅は30センチ幅の直線10メートルコース。
 このそれぞれのコースを20秒(だったよな、確か)以上かけて、はみ出ないように通過せねばならんのだ。
「え?それだけ?」と思ったあなた、この試験の過酷さがわかっていない。これはすんごくムズカシイのだ!普通のスピードで走ったら10メートルなんて3秒くらいで通過しちゃうのだよ。それを20秒以上かけるということは!普通にペダルを踏んじゃいかんのだ!ほとんど静止したようなスピードでじりじりと進んでやっと20秒。

 なのにその状態で30センチ幅からはみ出ちゃいかん。かなりのバランス感覚が必要とされるのがおわかりだろう。しかも!最初と最後には手信号も必要。「発進」の手信号をしたら素早く出発。止まるときも直前に「停止」手信号をして体制を崩さず止まる。
 「停止」なんか、コースアウトしないようにバランスを取りつつ片手だよ。しかも手信号を出す前に振り返って後方確認せにゃならんのだ。

 私が初めてトライした時は、発進直後にバランスを崩してコースアウトした・・・。ふっ・・・。つま先立ちから発進するのはムズカシイのさ。ペダルを踏み込んじゃだめだしね・・・。

 ということで私が「銅」を取得するのには2年の時がいったのだった。そしてさらに半年ほどかけてやっと「銀」・・・!卒業までに「銀」が取れるとは〜〜!!と私は感動しまくった。
 だって「銀」が取れれば友達のうちへは漏れなく自転車で行っていいのだよ。

 しかし、、、、私が「銀」を取った直後、衝撃の事実が待っていた。

 自転車免許制度の廃止である。

 この話を聞いたときはガックリきた。これからは免許がなくても自転車に乗り放題だという。じゃあ、私の2年半の努力は何だったのだ・・・。
 ついに私は憧れのミニ交差点とは対面できなかったのだ。。。

 何故自転車免許制度が廃止になったのか?

 それは中学校の移転がきっかけだった。
 うちの小学校は町内に3つある学区の中でも一番人口の多い地区にある。位置としては町の端だけれども。駅も近い(徒歩30分でも)。国道も県道も通っている。役場も結構近い。何より急速なベッドタウン化が進み、大型分譲住宅地が出来てますます人口の増えている真っ最中の地区だ。その地区で幼・小・中が隣接して建っていた。

 その中学が、人口密集地を離れて位置的には町の中心部あたりの丘の上に移転した。なんでそんな不便なところへ行ったのか理由は知らん。一説にはK学区出身の当時の町長の陰謀とも言われている(笑)。

 それまで6割位が徒歩通だった中学校は、途端に99%が自転車通の学校になってしまった。


うちの町の大雑把な地図。「MY小」はマイ小学校って意味ではなくて(笑)頭文字。Mで始まる小学校が二つあったので。しかし私が行っていたのもこのMY小である。
 この移転があったのが前の年。私たちの1年先輩が、移転した中学校の初めての新入生となったのだった。

 おかげで中学生になったら、うちの小学校の生徒はみんな自転車通学になるのだ。慣れない自転車にいきなり乗って事故にあったらいかん。小学校のうちから徐々に慣らした方がよい、という結論になってしまった結果の免許制度廃止だ。

 もっともな理由かもしれん。だが私の2年半はどうしてくれる?!(こればっかり)

 感情的に納得のいかない私はその日、家に帰ると第一声、母上に訴えた。このやり場のない怒りを。
「聞いてん!自転車免許が廃止になったんよ!」
「ああ、それは私がPTAで廃止にせぇ、言うたん」
「・・・・・・・・・・」パクパクパク。

 小6にして「二の句が継げない」状況を経験してしまった私。

 母上、元凶はあんたかい!!!!!

 私の・・・私の苦労は・・・・!いやいや、母上はいつまでも免許の取れない、どんくさい娘を心配してくれたのだ。その心遣いを感謝こそすれ、怒ってはいかん。いかんぞ。。。でも、私の苦労は・・・

 それから私はしょんぼりと自転車のところへ行ったさ。苦労に苦労を重ねてやっと取って貼ったばかりの「銀」の免許を見にね。。。。

 「人生、こんなもんだよ」と、そのステッカーが私に語りかけたかどうかは、すでに過去のことゆえ、覚えていないが。

'01/08/10 UP


自然とふれあうシリーズ−6−
〜「彼」の物語〜

 「彼」の話をしよう。

 「彼」は私の身近なオトコの中で最も凄絶な半生を送ったヤツだ。
 何年も経った今でも「彼」の最期はまだ鮮明に思い出される。

 「彼」はやや小柄だった。美しい白い体毛に覆われていたが、右羽は少し丸まっていた。
 そう、「彼」の名はカイコガ。漢字だとこう→蚕蛾。
 残念ながら固有の名前は持っていない。私がつけなかったからだが。 


素晴らしいほど似ていない。。。
 カイコガとはカイコの成虫である。カイコとは、ご存知、絹の原料の繭を作る、あの虫である。

 桑の葉をムシャムシャと食べて育つその虫を飼うのが、小学校の頃何度かブームになった(ご近所だけのブームだったのかもしれないが)。
 私も何年か飼った。ご近所の農家でもらってきて飼うのだ(養蚕農家だったのだろうか…)。毎日毎日桑の葉を採ってきてやるのは結構大変である。すでに桑の木自体があまり近所になかったので。
 しかし、一心不乱に桑の葉を食べるカイコはなかなか可愛い。白くてプヨプヨした体も、吸い付く後ろ足の吸盤の感触も、えもいわれぬ幸福感をもたらしてくれる。
 彼らとのドラマは色々あるが、今回は「彼」の話である。

 「彼」の悲劇は早熟なところにあった。これが全ての悲劇の始まりと言って差し支えないだろう。
 彼が蛾になるまではごく平凡なカイコだった。少なくとも私には幼虫時代の彼がどれであったのか見分けがつかなかったから。蛾になっても普通見分けはつかないが、彼の場合、繭から出るときにどこかに当てたのか、右の羽が伸びきらず、丸まっていたので見分けがついた。

 彼は、その年の繭から出てきたカイコガ第一号であった。
 彼は早すぎた。1日待っても2日待っても第二号は出てこない。彼らはガになると交尾をして卵を産んでその命を終わるのだが、いつまで待っても交尾の相手が出てこないのだ。
 彼は飲まず食わずでじっと待った。孤独な時間をひたすら耐えた。

 そして3日目、ついに彼の努力は報われた。第二号でメスのカイコが繭から出てきたのだ!彼らは早速交尾に入った。

 しかし悪夢はこれからだった。それから順調に3号、4号と繭から出てきたカイコガは全部メスだったのだ!
 …そして「彼」の取り合いになった。交尾しているメスに隙あらばとってかわろうと、しっぽ(?)を突き出す待たされているメスたち。

 「早くしてよ!」「あんた長いわよ!」「図々しいわね!」などという彼女たちの声が聞こえてきそうなほど凄まじい状況であった。
 一組の交尾が終わってカップルのしっぽが離れると、すぐさま彼のしっぽに次のメスのしっぽがくっつく。彼には全く休む暇がない。

 そうして一体何匹のメスの相手をさせられたのか、何日も何日も彼は一人で次から次へとメスたちの相手をした。普通は1対1で交尾を済ませたら、用済みになったオスは早々と果ててしまうのだが、彼はひっきりなしに求められたせいで、オチオチ死んでいられなかったらしい。彼は普通のオスの何倍もの日数を生き抜いた。フサフサの体毛は禿げ、体の節々が茶色く剥き出しになり、鱗粉が落ちて半透明になった羽を弱々しく震わせながらも、彼はメスたちの要望に応え続けた。

 そしてある朝、彼は箱の片隅で動かなくなっていた。箱の真ん中では、やっと今朝出てきた第二弾、第三弾のオスが元気に交尾相手を探して羽をバタつかせていた…。

 役目の終わった彼の死に顔が安らかだったかどうかは、残念ながら虫の表情を読み取る能力のない私には判断がつかなかった。だが、彼の死体を見たとき「ああ、やっと死ねたのね・・・」と涙してしまったのは本当だ。私はこのとき、彼に「オスの哀れ」を見たのだが、本当に哀れだったのか幸せな一生だったのかは、他ならぬ「彼」にしかわからないことであろう。

 立派だったぞ、サンタロー(今名づけた。漢字はこう→蚕太郎)。君の交尾した後半のメスの産んだ卵は全部無精卵だったあたりに、また一段と哀愁を感じたがな。。。



暴走教習車

 初めに断っておく。このタイトルは大げさである。

 教習車といえば、もちろん「仮免許練習中」と書かれて路上をノロノロ走る、アレのことだ。

 さて、大方のドライバーがそうであるように、私にも当然「仮免許練習中」時代があったのだ。
 当時、教習所に入所すると、運転適正性格診断みたいなテストがあった。時間内にいっぱい三角を書いたり、簡単な足し算をしていったりするやつだ。それによると、私の性格で特筆すべきは動作がのろい・作業が正確でない・神経質度5というものであった。ちなみに「神経質度」とは5段階評価で3が普通、数字が小さいほど神経質、というものだ。

 このような結果にも関わらず、順調に仮免許を取得したある夜の路上教習での出来事。

 仮免許を取るまでついていた担当教官と私は大変ソリが合わなかった。いらんとこで口だしばかりしてくるので大変不愉快であった。仮免許直前で補習券を切られた時(後にも先にもこれが唯一の補習券)、ついに私は切れた、心の中で。それ以降、私はこの教官を避けるべく、キャンセル待ちして教習を受ける手段に出たのであった。ということでこの日、初めての教官であった。教官は出発直後、私の成績表(?なんていうの?教習成績みたいな、カルテみたいなやつ)を見ながら「O型で神経質度5ゆーたら、すげーよ」と言った。そんなもんかい。でも「神経質度5」ってのは確かにめずらしいらしい。物事にこだわらなさすぎる、ということらしいからして。しかし、そんなことを言われたにも関わらず、私はこの教官に大変好感を持って運転していたのであった。

 1時間の路上教習も大半消化し、さああとは教習所へ帰るコースのみ、となった時、それは起こった。場所は路上コース中、最大の信号交差点。五差路である。ここを右折するとなると、いつも延々待たなければならない。私は右折レーンの先頭で止まっていた。教官はまたしても成績表に目を落としている。夜である。対向する車のウインカーが良く見える。ウインカーは全て右折。直進車は存在しない。私は内心「しめた」と思った。これなら信号が青に変わったらすぐさま右折できるではないか。そして信号は青になった。私は間髪入れずアクセルを踏みこんだ。ブォ〜ン!その直後


 私は助手席ででんぐり返っている教官を見た。。。
 「いいい今の…、いきなり右折…」体を起こしながら動転している教官。
 「はあ。対向車が全部右折ウインカーを出してましたので、早く曲がった方がいいと思ったんですが。」

 以後、教官室で私の名前は一時噂になっていたらしい。「あの子はよう(周りを)見とるで」という誉め言葉だったと聞いたが、本当は「教官をでんぐり返らせた女」ということで噂になっていたのかもしれない。。。



自然とふれあうシリーズ−5−
〜縄よ、いずこ〜

 幼稚園か、もっと小さい頃である。

 その日私は田んぼの畦で遊んでいた。父母が田んぼ仕事をする間、小さい私が目の届く範囲にいるようにと、連れてこられていたのである。そこで私は草を集めたり虫と戯れたりしてそれなりに一人遊びに熱中していた。するとそのうち、何か縛るものが必要となったのである。
 そこで私は、縄の切れ端を探して歩いた。
 当時は今のような便利なビニールひもはまだ使われていなかったので、田んぼ仕事で縛るものといえば、縄。それも自家製の、藁を手ずからなって作った縄が多かった。そのため、田んぼの畦には腐りかけた縄の切れ端がよく落ちていたのだ。
 少し歩き回ると、私は草の間に落ちている縄を発見した。ちょっと短いけどないよりはマシである。


 私は縄の真中を右手でつかんだ。その途端。
シュルシュルシュルシュルっと、おぞましくもスピーディーに縄は動き、私の手の中から消えてしまった。びっくりした私はその場にしりもちをつき、しばし呆然としていたが、あのウロコのような感触もナマナマしいモノは・・・(汗)。
 もちろん縄の正体はヘビであった。シマヘビという、私たちのあたりでは「ネズミとり」と呼ばれている、全体にキャメル色っぽいヘビである。
 彼(彼女?)はご丁寧にも地面にあいた穴の片方に頭を突っ込み、片方にしっぽを突っ込んで、胴体部のみを人目にさらしていたのだった。捕まれて彼もびっくりしたに違いない。我に返った私が、彼のもぐった方向へしばらく追っていくと、穴から出た彼があたふたと大用水を泳いで去るところであった。。。。

 後にも先にもヘビをガッシと掴んだのはこの時限りである…。



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